昭和五十六年十月三日 朝の御理解


御理解第二十四節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打こんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 勢を揃えた信心をするという事は、有難い事なんです。一家を挙げての信心。同時に私は、今日思うのは、一家中がその気になっておらないと、いわゆるおかげを頂くというだけではなくて、ここは家に力がつく、ここで一家が徳を受けたというような時に出会った時に、日頃バラバラであると、それが出来かねると思うです。いよいよの時に、いうなら一家が勢を揃えておかんとでけません。
 昨日、研修が終わりましてから、どういう事からじゃったか、いわゆるあの二十八年の大洪水の時の話が出ましてね、まあ本当に合楽もいろいろな所を、そん時は何でもない、又思うておった事が大変な、今から考えてみると、あれが力になったんだなあ、あれがお徳を受ける元になったんだなあと言ったような様々な所を通らせて頂いた。
 大洪水の時だけじゃなくて、警察に呼ばれ、警察庁の問題、もう或る時は、その当時の椛目に泊り込んで、その私を殺そうというような一寸頭のおかしい人が泊り込んで、私を一晩中狙っておったという、まあ後から聞かせて頂いて身が震うような話ですけれども、もうそういうような中をね、あのうようも通り抜けさせて頂いたが、ひとつもそれが、こう難儀として通りぬけていないという事。それが思うてみると、一家中が信心しておったから、いわば私の言う事に、そりゃあなたそげな事言うけれども、こうというふうに言わずに受ていかれたと思うんですね。
 又そういう意味で、今日は一家勢を揃え、一家勢を揃えた信心という事によって、成程おかげを頂く。一人で持ち上がらぬ石でも大勢掛声をもってすれば持ち上がるのだけれども、なら一家勢を揃えておかないと、いよいよ、なら、ここでは力を受けた、徳を受けた。
 私は、昨日、その二十八年の大洪水の時の事を思うて、まあ初めて聞く人もあるから、皆に話した事でしたけれども。あれは丁度合楽だよりの新聞の三回目の新聞に、上野先生が丁度椛目で修行しよりましたから、そん時の思い出の記というのを新聞に掲載しとったのを正教先生が出して来てから読ませて頂いた。本当その通りだったねえと言う話をね、皆さん新聞を持っておられる方は一遍あれを読んでみて下さい。
 只そういうことろをおかげ頂いたと言うだけではなくて、ははああん時にもし私がうろたえて、そんならそれこそ隣近所の方達が皆屋根を破って、こう助けを求めます。日頃は大変偉そうな事を言うとるおっちゃん達でも、もう屋根の上に上がって「助けちくれー」ち言うちから、おらび(叫ぶ)なさって、おらんでおられたあの時分、この事ですからね。一家中兎に角、その時分にやっぱ修行生からいろいろ家族十五、六人も以上もおったかもしれません。
 それも八畳と四畳の二間とこちらへ三畳位の部屋が二階にあっただけであった。それで四畳半の方は、私が神様の部屋にちゃんととっておりますから、その、あの時にそれこそ決死の、あのう西日本の新聞の写真班の方が、もうそりゃあ椛目の横のあの道が大きな川のようになって、もうそりゃあすさまじい勢いで流れたんです。だから、船は寄りつけなかったです。そこを、あのう乗り越えてね、その写真班の方がその写真を写しておる。それが、その私共一家の者が、窓を開けて前を通る船を見ておるところを向こうから写しておるのを、その二十八年の洪水の何か写真展か何んかあった時に、あのう、私の妹のお友達が役場に勤めておりましたその方が、それをあの「ああた方ん写真が出とったから貰うて来てあげた」と言うて、それが今残っておるんです。新聞にも、その写真が出てるんです。もう本当に二階の屋根のここん所(窓すれすれ)まで水がピチャピチャ来てるんです。そりゃ私の方の父も大変落ち着いた人でしたけれども、あん時ばかりはやはり皆あのう、その逃げてしまわれましたですからね、近所の何は。
 けれども、私はその写真に出てます。ちゃんと羽織袴付けてから御祈念、御結界奉仕をしております。そして、こりゃもう先生いよいよいかんばい、あのう、どうかせにゃと言うて来た時に、私は御神前に出らせて頂いたら、私が四時、四時迄ここに座っておりますからね。ですから、あのう四時迄時間をきって神様にお願いをしとるから四時迄待ちなさい、と言うて神様からそん時に頂いたお知らせが丁度この二階の瓦にもうほんのちょっとで二階の畳に上がる程しの水でしたから、あの瓦のそこん所へ蛙がね、こう漫画のような感じで、あのうギッチャンバッチャン(シーソーの事)しよるです。横にこう棒を置いて子供ん時によくやりますね。こう、ギッチャンバッチャンち言いよりました。その蛙が、こうギッチャンバッチャンして遊びよるところを御神願に頂いたです。
 そして御理解に、この蛙がね上に飛んで来る時にゃ、まあだ水がいみる時だ。だから横に遊んどるなら大事ない。皆にその事を言うて安心させよという事でしたから、私が窓際に皆を呼んで、その説明をしておる時に、前に船が通ったんです。ね、確かに蛙はね、上さいにゃ飛ばずに横さい、こうやって遊ぶようにして飛んでいる様子を見て、皆が安心しました。もうそれこそ四時の御祈念終ったのをきっかけでした。引き出した。
 そりゃ、そん時、それだけの思い出話として、又その通りの事を先生が書いとります、上野先生が。その事を話して、あらためて思うんですけれども、あん時に、もし私がね、それこそ助けてくれで、船に一家中が、あの逃げ出しとったら、ひょっとすると今日の合楽は無かったかもしれんと思うです。
 そういうような所を幾度も幾度も、ならそれを何んと申しましょうか、神様を信じて疑はないという信心が、あのうでけて、そん時にそれをお試しとも思わなかったけれども、今から考えてみるとお試しだったなあと思うんです。
 そういう時にどうでしょう。一家中の者が信心がなかったら、そりゃ何んと言うたって、ああたがそげなこつ言うたっちゃ子供達や年寄りだからと、例えば家内が慌てだしたり泣きわめきするなら、やっぱあのう逃げとったでしょうね。
 だからね、私は一家中が勢を揃えておかんとね。そうすればおかげを受けられると同時に、いよいよここでは徳が受けられる、力が受けられるという時に、他の者が神情で行かにゃならん所を人情を使うような事になると、その一家の上に頂くお徳が受けられない事になりましょうが。今のその事から言うてもそうです。一家中の者がどっこいと落ち着いとる。昨日、勿論若先生だんまだ子供ん時でしたけれども、僕だん楽しゅうしてこたえんじゃった。二階のそこ迄水が来とるもんだから。前をもう兎に角牛やら馬やら家やら流れました前を、椛目の前を。
 まあ考えてみると、あの古川の村が皆、原鶴あたりが流れた時の、あの大洪水の時ですからね。そん時の模様を上野先生が細かにいろいろあの書いておりますから、もう一遍ね読んでみられると分かりますが、只そういうところがあったというおかげを頂いたという事じゃなくて、あれがなら大坪一家の上にかけられた、いうならばお試しであったかも分からなっかたところを、もしあのお試しに落第しとったらですね、いやそれは一事、二事じゃないですけれども、そういうような事柄を、言うならば或る意味合いでは、平気で有難くどっこいという心でね。
 なら、若先生が、あの、目に竹の釘がこんなここに(眼球)突き刺さった時なんか、それをこう引き抜いておられるもんですからね、あのう近所のおじさんがびっくりして、それで目ん玉が上にひっくり返ってしもうて出とったです。それを抱えて御結界に連れて来た時に、もうヒイって泣いとりましたから、もう本当にあのう「ようし神様にお願いするぞ」と言うたきりで家内が二階に連れて上がってすぐ泣き止みました。そしたら、眠ったんです。そして、その眠りから覚めた時にゃ、勿論もう大変な、この真っ赤な血をもみ込んだような目をしとりましたけれども、そのひっくり返っとる目が中に納まっとるというような事で、勿論まあそういう事が、昨日はいろいろあんな事もあったなあ、こんな事もがあったなあ、あんな事こんな事を全部信心で受けぬいて来ておるという事がです、私だけの信心ではなくて、家族中の者が勢を揃えた信心しておったからでけたんです。親先生まかせになり得たんです。
 だからそういう時に、なら家が力を受けた、徳を受けたというならば、言う訳になりますですがね、いわゆる神様を信じて疑わないという信心をしとるだけじゃでけん。一家中の者がしよらなければ、いよいよん時に、いわゆる家内が一人ね、親父にこっそりと人間心使うて、いわゆる手ごう(手加減)するならば、もう私の信心が崩される事になりますからね。
 昨日、或る女の修行生の方がお届けにここに来ました。ほら、勝手の方の御用を頂いとりますと、大勢の女の人達がやっとりますから、いろいろやっぱ問題があるらしいんです。それで、ここはどうでも一つあのう言うておかなければならない。皆もそう言いよりますから、ああでこうで話を聞きよると、ほんなこつのあんたが言うとおりという訳なんです。それで、その事が兎に角ここにお届けに来るからにゃ、まあ一生懸命の、その問題ですからお届けに来て、その方が一生懸命その事を神様にお願いしよったら、頂いたのが稔という字を頂いたち言うんですよね。のぎへんに念ずるの念という字が書いちゃるですよ。
 だから、今あんたん話を聞いとると、ほんこつの、あんたが言うとが、あんたが言うとおりばいと、こう言いたいことろでしたけれども、そうしてお知らせを頂いておる所をみると、これはやっぱ言うちゃでけんばい。まあ言うなら黙って治めるというか、まあ芯になる人が右というなら、あんただん左と思うても右の方に右へならいするがほんなこつじゃないか。ここは、もう一つ合楽の信心で頂きぬかにゃいかんところじゃないかなあと。あんたが今思うておる事、例えば木(き)へんに念(ねん)という事になるでしょう。木は心と言うね。木へんに念という事では念るという字にはならんでしょうが。今あんたが念じておる事、思うておる事がその通りしたぶんじゃあ、成程こりゃ私が聞いてもあんたが言うとがほんこつのごたるけれども、ここはもうひとつ上にチョンの字を、のぎへんにしなければ稔るという字にはならないよと。ここは言うならば、泣き泣き辛抱とか、ここは頑張らにぁという事じゃなくて、日頃の信心をはっきりここに打ち出して、いうなら今の心にもうひとつ信心を添えなさい。そすと、これが必ず稔りに、おかげになるというて、まあ申しました事ですけれども、ね。私共のいよいよここで徳を受ける。
 ここでなら今ここで修行しよる方達に神様が本当に力を与えて下さろうとしておる働きを受けて下さっておるにもかかわらず、そこで普通一般の者が言うたり思うたりするような事になっておる、なったんじゃ、もう言うならば木へんに念という字であって、心に念じておるという事だけであって、いかにもそれは普通人情から言うなら本当な事のようだけれども稔にはならない。徳にはならないという事であります。ね、そうでしょうが。
 だから皆さんも信心するならね、ここんところは人情で言うたらぎりぎりそれが本当なんだけれども、ここをもう一遍考えて日頃の信心にもの言わせるというか、その思うておる事にもう一つ信心を添えますとのぎへんになって念じている事が、こう合わせて稔という字になりますように、言うならばおかげになるだけじゃなくて、力に徳になりますように。ね、そういうところが、私は合楽の場合は特別な言うなら特訓を皆さん受けておられると思います。
 只おかげを受け、そんならお願いをしよこう。あんたがそげなふうにと、こう言うなら普通の事になりますです。困った難儀な事があるから、まあそれをお繰り合わせ頂いて、そうしなさい、ああしなさいと言うたら、そこをもう一つ日頃の信心にもの言わせる。そのへんのところが、私は合楽理念には説いてあると思うんです。そうして、そういうところをね、通る所を通らせて頂いて、初めて力がつくんだ、お徳が受けられるんだという事です。ただね、一家中の者が、言うなら何とはなし信心して一つの事を皆で祈るという事がおかげを頂く、言うなら、まあコツでもありましょう。ね、勢を揃えて信心するのですから。
 けれどもそういう信心がでけておらんと、いよいよなら家全体が力を受けんならん、お徳を受けんならんと言う時にです、ばらばらでは、もし信心がなかったりすると、ああたはそげん言いなさるけれどもという事になってくる訳。夫婦喧嘩したり親子喧嘩したり、又は乱れてしまう。信心が乱れてしまう事になる。
 ね、例えばそん時に近所のそのおっさんじゃなかばってん、一家中の者が、はあ子供、親が助けちくれ助けちくれち言うなら、子供は泣きだすに違いないですよ。ね、ところがもうこれは勝彦が昨日言っておりましたが、もう僕は覚えておるが、楽しかったとこう言うです。そういう雰囲気があったんです。
 ね、そこにね、私は勢を揃えた信心という事がでけておらんとね、いよいよん時に言うなら本当の信心の願い神の願いというものに一家中でそい奉る事がでけないという事。ね、一家中で、その事にそい奉った時に初めて一丸となった、いうなら勢を揃えた信心の値打ちというのが発揮されるんだというふうに思うんです。そういう意味でも勢を揃えた信心というものがね、いかに大切な事かという事が分かります。どうぞ。